8/19神様が期待しておられる良い実

今日の箇所イザヤ517には、神様は、ご自分の民に、ご自分から受けた愛に相応しい実を結んで欲しいと心から願っておられることが示されています。

神様は、ご自分の愛する民であるイスラエルをぶどう畑に例えられます。神様は、土を掘り起こし、石を取り除いて、良いぶどうを植えられました。そして、その後も心を込めてぶどう畑の世話をして来られました。神様がいかにぶどう畑を顧みられたかということは、神様ご自身がわがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのかとおっしゃったことからも良くわかります。イスラエルは、神様の愛を一身に受け、神様の恵みの中を歩んで来たのです。

神様がここまで心を傾けて世話をして来られたにもかかわらず、ぶどうの木は、食べられないような酸い実を結びます。良い甘い実を結ぶことをひたすら願って世話をして来られた神様の期待を裏切ったのです。

良い環境を整え、ぶどう畑を造って来られたのは神様です。それゆえ、神様には、ぶどう畑を捨て去る自由もあります。神様はご自分の愛に応えることなく、期待を裏切って酸い実を結んだぶどう畑を裁くとおっしゃいます。ぶどう畑の垣を除き、石垣を崩して、獣が踏みつけるままに放置されるのです。

守り、ケアし、管理する者がいない農園は、ただ廃れていくだけです。せっかく美しく整えられていたぶどう畑は、いばらとおどろが生い茂り、雨さえ与えられないので、瞬く間にみすぼらしい荒れ地となってしまいます。

神様はご自分の愛するぶどうの木であるイスラエルに、公正と正義の実を望まれました。しかし、彼らは流血を行い、その結果、その地に泣き叫びだけが満ちるようになったのです。神様が御目を背けられ、ケアの御手を引かれた場所には、ただあらゆる災いを引き起こす悪と自己中心、不従順が満ちるしかありません。

神様の愛と恵みのケアを受けている聖徒は、自分自身のために実を結ぶのではなく、良い実を期待してくださっている神様のために実を結ぶのです。それゆえ、私たちは、神様の望んでおられる、神様の願っておられる実を結ぶ必要があります。今まで神様が注いで来てくださった愛と恵みに感謝し、自らの使命を憶えて黙と実践する時、私たちは、人生において、主の願われる実を結んで行くことができるのです。

世の基準に従って結んだ実は、神様にとって、何の役にも立たない酸いぶどうの実のようであることを憶えたいと思います。自分の人生のあらゆる領域において介入してくださる神様の細やかな御手のみわざを常に憶え、その恵みと憐れみに感謝し、神様のみこころに自発的に従って行くことを通して、神様が望んでおられる良い実を結んで行くことができますように。御霊の照らしと導きがありますように。